2009年7月アーカイブ


2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 山本一太 1

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 山本一太 2

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 後藤田正純  1

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 後藤田正純  2

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 1

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 2

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 3

2009年7月11日 自民党大阪府第4選挙区大会 4

中山泰秀をさがせ!

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中山泰秀をさがせ!

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この写真は1972年当時です。1969年、衆議院に初当選した私の父、正暉が選挙区の中心部JR大阪駅前で、時の内閣総理大臣・田中角栄氏と街頭演説を行った時のものです。当時私は2歳。さてどこにいるのでしょうか。横断歩道の階段?写真のバックを横切る通路?写真中央からやや下寄りに映る宣伝カーをご覧ください。スピーカーの下、正暉と2ショットで写る子が、当時2歳の私です。当時に比べて今日、こういった政治に対する盛り上がりがみられないのが、本当に残念だと思います。日本の将来を憂い、少しでも日本人が情熱を傾ける政治を通じて国力を上げたいと思う政治家・中山泰秀の原点がここにあったのです。

中山家で進められた自由党の結成

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自由党結成が話し合われた中山家の枚岡別邸での貴重な写真。

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中山泰秀が語る「中山家の歩み」政治に真剣な家に生まれて

中山家枚岡の別邸で進められた自由党の結成

この写真(3面上右の写真)を見てください。この左から3番目にいるのが、私の祖父・中山福蔵です。その向かって右にいるのが鳩山邦夫さんと現民主党代表由紀夫さんの祖父である鳩山一郎氏です。一緒に写っているみなさんも、後々議長や首相そして大臣になる政治家達です。 これは昭和21年の写真です。場所は祖父・福蔵が枚岡に所有していた別邸。戦中父・正暉の兄弟もここに疎開をしていたこともあったようです。ここに祖父が鳩山さんをはじめとしたこの面々と相集い、当時の自由党を結成する運びを決めたのです。 しかしこのあと、鳩山氏と総理大臣の座を争っていた吉田 茂氏がGHQに、鳩山がナチスドイツを肯定しているような文面の著書がとたれ込みを行い、鳩山氏は占領軍からの追放令により政治的立場を奪われ、結局、総理大臣の座が遠のき、吉田氏が先に総理大臣になることになりました。鳩山氏も最終的に総理大臣になり、そして自民党初代総裁になりました。その原点の写真です。そのような歴史に、祖父・福蔵をはじめ中山家も加わらせて頂いていたのは他でもない、当時から祖父を支えてきて下さった大阪の皆さんの本当にお陰であると心より感謝をしております。史実として、このように大阪で、昭和の政治の歴史の1ページがつくられてゆき、平成に至っても鳩山和夫・一郎・威一郎そして現在の鳩山由紀夫・邦夫として4代目にあたる「2羽の鳩」は活躍されている。私も中山家で政治家を務めさせて頂いて親子3代ですが、日本の政治の中で、代々に亘る形で日本の国民・国家の為に働かせて頂けていることに、また与えられた使命を全うさせて頂けていることに、本当に地元の皆様に「ありがとうございます!」と感謝を申し上げます。ましてや現在繰り広げられている、吉田 茂氏の孫、麻生太郎首相と民主党の鳩山一郎の曾孫、鳩山代表の戦いも、もとをただせば吉田 茂氏と鳩山一郎氏との争いから、まるで因縁かの如く同じことを演じているという歴史の不思議を感じます。 祖父・福蔵は九州は熊本生まれ。父が早く亡くなったので母に連れられて、鹿児島・志布志に移りました。私も鹿児島県人3世で、現在同県人会メンバーです。福蔵は、大阪の旧制富田林中学に遊学し、家庭教師をしながら苦労しました。勉学だけは人一倍できたので、大学進学までを全て特待生として独立独歩。旧制第七高等学校から東京帝国大学法学部を卒業、弁護士事務所を東京で開けということを最初言われたそうですが、東京だと東大の同級生と法廷で争わなきゃいけない。それは宜しくないということで、大阪で中山福蔵弁護士(法律)事務所を開きました。そこで福蔵と結婚したのが祖母マサです。 

女性初大臣・祖母中山マサの胸像(長崎の活水女学校)

祖母・中山マサは長崎出身で、長崎には活水女学校というミッションスクール・プロテスタント系の名門女子校があるのですが、祖母が13歳当時、米国宣教師であった先生のお薦めで14歳の時アメリカに渡りました。正に第一次世界大戦中、ドイツ軍の潜水艦Uボートに追い掛けられながら、必死の思いでアメリカ大陸を目指したそうです。そしてオハイオ州ウエスレアン大学を卒業した後、日本に帰国し長崎の活水女学校で、英語の教師をしておりました。今はこの写真に写るように、校舎内同窓会事務局前に、胸像を建てて下さっています。そして将来、その彼女が「大阪の有権者の手によって」日本初の女性大臣になるわけです。まさに大阪有権者の先見性の象徴であったと言えます。祖母は私の誇りであり、そして同時に心よりの『感謝の意』を今でも大阪の皆様に忘れたことはありません。 この祖母マサと中山福蔵を縁組して下さったのが、早稲田大学創始者・外務大臣も経験された大隈重信公の秘書官 川尻正修氏のお世話になったお見合い話なんです。そして2人は大阪市で新婚生活に入り、戦前衆議院に当選したのは昭和7年、くしくも父正暉が生まれる直前のことです。戦前の話ですが、中山福蔵というのは、独立心が非常に強くて、東大在学中に休学をしてジャワ、インドネシア ボルネオの方で、ゴム園を経営していた伯父を助けて活躍していたこともありました。

祖父・福蔵

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祖父・中山福蔵と泰秀

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自らを「大自然主義者」と言っていた祖父・福蔵

福蔵が言っていた言葉の内で2つ、父から聞き伝わっているものがあるのですが、1つは「世界の将来はアフリカが決する。」もう1つが「大自然を大切にせよ。そうでないと、やがて人間は自然からしっぺ返しを食らうぞ。」というもの。人間が自然を裏切ると、自然は必ず人間にしっぺ返しを食らわす、と言っていたんです。自らを「大自然主義者」と言っていて、戒名の中にも「盡政院釋自然」という文字が入っているくらいで、自然に対する思いが強かった祖父だったのです。 戦前いろんなことがありましたが、結局「エコ」なんて当時訴えても、今よりも環境が数倍いいと感じられていた時代でしたから"なに言ってんだ"と言うことだったのかも知れませんが、なかなか現在のように自然環境に対する「ピン!と来る」思いの人々が少なかったと想像します。しかし、戦前3期衆議院で活躍できたのも大阪の有権者が政策に敏感である、先見性があるという証左だと思います。  戦前昭和15年2月2日、兵庫県豊岡の代議士 斎藤隆夫という人が「聖戦の美名に隠れて」と軍部を批判し、反軍演説をしました。東条陸軍大臣当時です。その反軍演説をした結果、斎藤氏は除名処分の決定がなされるわけです。ちなみに今でも、衆議院の決まりで3分の2の賛成があれば1人の国会議員の議席を奪うことができるんです。その反軍演説をして3月7日ついに除名処分になったのです。 祖父・福蔵は、斎藤 実内閣時代、私も小泉内閣時代議事進行係を務めました。(議長~!っていうやつです。)ちなみに父正暉は田中角栄内閣時代と親子3代議事進行係を務めている例は、憲政史上初であります。斎藤隆夫除名に際して祖父福蔵は弁護士で法曹界にいることから、被告人の刑が確定しても、刑を執行するまでに猶予期間をおくべきではないか。内閣の方針に異論の演説をしたからと言えども、短期間のうちに除名をすることに対し反対を述べたところ、祖父・福蔵までが東条首相からと国会の廊下で腕を掴まれ、いやみを言われたことがありました。祖父は大政翼賛会からはずされ、戦時下の選挙で非推薦になり、昭和3年に治安維持法に伴う緊急勅令公布により設置された特別高等警察等の政治的弾圧・嫌がらせを受けたそうです。祖父の法律家としての正義感からの発想が東条内閣に曲解されることになった。 選挙の時は先述したように、当時の特別警察などいろいろなところから迫害を受けながら、波瀾万丈の選挙を戦ったんです。選挙が終わった日に「宛所に尋ね人なし」なんていって推薦はがきも全部荒縄でくくって送り返されてくる。そんな状態で「落選」を東条英機内閣に味わわされるということがありました。そんな苦労をしながらも、祖父・福蔵は後に参議院に返り咲いて、再び議員を務めさせて頂いたり、日本人としてトルコ共和国初の名誉総領事を務めあげさせて頂きました。これも戦後の大阪の有権者による深いご理解の賜物であります。本当に感謝であります。 中山マサも波瀾万丈な生き方をしましたが、まさに激動の人生を歩んだ2人が出会い、4人の子どもができました。

福蔵・マサとともに

「くにこ」おばさん(私からみるとおばにあたる)という末の娘が、父の兄弟にはいたんですが、戦前3歳の時に亡くなっています。実際、兄弟4人ということです。四男坊が父・中山正暉で、竹下内閣で郵政大臣として初入閣させて頂き、その後、総務庁長官、建設大臣、国土庁長官を歴任させて頂きました。親父も今年は77歳ですが、当時、「いつまでも若い人たちに迷惑をかけたくない」と潔く勇退しました。『若い人たちに政治をしっかりと、新陳代謝をするべきだ』というのがうちの父の意見でした。

2009/7/4放送分 ニュースの真実

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2009年7月4日に日本映像通信株式会社で配信された「ニュースの真実」-通算第327回-☆日本の力(国力=0)の源泉
時間:37分35秒
こちらからご覧下さい。

潔く勇退した父・正暉

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祖母マサの葬儀にて参列者に感謝・立礼する泰秀 当時6歳。

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70歳で潔く勇退した父・正暉

僕は、現代の政治家に対して思うところがあります。 うちの父と同期の人たちが未だにいたりとか、総理大臣経験者の方等、例えばアメリカではゴア副大統領がいい例だと思うのですが、副大統領ですら辞めて、議会に戻らずに、なおかつ環境問題を訴えつつ世界中を演説して歩いている。そして、寄付で得たお金などを環境のための事業、価値ある事業に対して"価値ある支援"をやっている。日本でも70歳目途に政界引退ですとか、総理大臣経験者等は時期を観て引退なさって、もっと社会に貢献するような事業にご自身の名誉名声を活かしながら社会貢献度の高い事業等をやることが、もっと人々の尊敬の念というものを高め、世の中に対して良い波及効果を生むと思います。 今の政治家の先生方、先輩方にも、ぜひうちの父の姿勢を見習って頂き、そういう第2の政治家人生を考えて頂けたらありがたいなと思います。政治家の第2の人生、小泉純一郎先生もまさにそうですよね。今度、引退なさるわけですから。 さて、そんな家に生まれて、私自身は25歳で初出馬。本当に、文字通り最年少候補で立候補、全国自由民主党最年少候補でした。選挙期間中に誕生日が来たという不思議な選挙でした。どうしてこのような事態になったのかというと、選挙制度が変わり、中選挙区制度から小選挙区制度に移行し、1つの選挙区が3つに分割されました。大阪市内の選挙区が事実上増え、誰も出馬する人がいない空白区ができてしまったのです。当然、党としてそこには誰かを擁立しないと、当時の新進党、共産党、民主党等をはじめとするその他の政党に不戦勝させてしまうことになってしまう。かれこれ今から14年前の選挙のことです。そこに私は初出馬させて頂くという運命になったのです。 その時は、父 正暉が渡邊美智雄グループの事務局長をしていて全国の候補者を選ぶ各派8人の代表の1人でした。3つに分かれた選挙区の4・5・6区のうち父正暉が4区、6区が公明、5区に候補者がなく代表者会議で人選を急がれ、種々検討されましたが、ついに他のメンバーから倅 泰秀を出せと要望されました。森 喜朗先生が幹事長で、たまたま親父と秘書の私が車に同乗している時、森先生が電話をしてこられまして、私が要望を受けることになりました。親父は、府市会議員の先生方にもお聞きし、公募型でいろんな人にもどうだ?と情報を集めたが、結局どなたも出馬する人がいない。当時、自民党がなかなか厳しい状況で、他党相手に勝算が立つ可能性が薄いという中では、誰も自民党公認なんかで出馬するという人はいないわけです。そうしたら森先生の要望で親父が電話を受け「倅は今隣にいるから」と言って、電話をバトンタッチ、私が直接お話しすることに。そうしたら森先生が「おう、倅か。どうだ、今度選挙出てみないか?」とおっしゃったので「いや、幹事長、せっかくの有り難い光栄なお誘いですが、申し訳ないのですが、私はまだ24歳で被選挙権がありませんから。自民党の大幹事長にお誘い頂いたのはうれしいのですが、残念なんですがお役にたてません。また次に機会があったらぜひチャンスを下さい。」と回答したら、「そうか、おまえ誕生日はいつだ?」「はい、私は昭和45年10月14日生まれです。」と「分かった。誕生日が来ておまえが25歳になるまで、衆議院は解散しないでいてやってやる。」とおっしゃったのです。そうしたら本当にずるずる解散が延びて、出馬することになったんです。

25歳で初挑戦

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人生初めての選挙で座談会にて 当時25才の泰秀。

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「それら全てのおかげで今がある。」

幼少期にはひざの上に兄弟2人姉と私に「お前はわしのなんや?」と聞き、姉は「宝」私は「命」と答えさせていました。今考えますと、同じことを自分の娘にもさせています。そうして愛情たっぷりに私たちを育ててくれた親父に、そして母親に感謝しています。 

自民党政務調査会 現在国防部会長航空自衛隊百里基地でファントム戦闘機に試乗する幼き日の泰秀

また不思議なもので「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉があるとおり、私自身が選挙に出る時どうしようかと思っていたら「長い間、あんたとこに世話になったんよ!」ですとか、「倅さん、あんた3代目で出るんやったら喜んで応援するよ!」と言って下さり、自分の仲良しの色々な人に頼んで、協力して選挙事務所を設けるのにお手伝い下さったり。電話回線を引くことになったら、電話配線を生業にしている友人が「よっしゃ~ボランティアでやったろう!」って言ってくれて、破格の値段でやってくれたり。運動員がいなくて困り果てていたら、ご家族のご友人等を集めて下さったり。本当にみんなが手弁当でやってくれて、なんとか十三淀川区役所前に当時選挙事務所を持つことができました。今となっては貴重な思い出と、たくさんの教訓となっています。 地元の事務所の場所を貸して下さった方も、古沢さんという最近お亡くなりになられた方なんですが。十三に映画『ブラックレイン』の舞台になったサカエマチ商店街という繁華街があるのですが、そこで事業を営んでおられる方が「あんたのためや!がんばりや!」って、本当に親身に応援して下さいました。本当にそうやって地元の人たちや今までのご縁のお陰で、本当の意味で選挙ができて、最初の選挙の得票数が4万3,143票でした。落ちて運動員はみんなボロボロボロボロ泣いてるんですね。だけど私は挨拶の時に「私の不徳の致すところですなんて、よくこんな状況では定番に挨拶している状況を見るけれど、私はそんなことは全く思っていない。それよりも、みんなで頑張って、本当に良くやって努力して、下さったお陰でこれだけの結果がでてきたのに、みんな、なんで泣いてるんや。みんなが泣くとこっちも悲しくなるから泣くのはやめてくれ」と「私はむしろ、うれしい気分ですよ。なぜならば、こんな若い25歳の青年に、中には会ったこともない方々が4万3,143人もの皆様が、大切な1票1票を入れて下さったんだと。私は野球場に全員の皆様を集めて、ピッチャーマウンドから、ありがとうございます!と御礼を言いたい位、すがすがしい感謝の気持ちでいっぱいです!」という話をしたのを覚えています。 しかも選挙中には個人演説会があるんですね。その前に家で親父と会うわけです。親父が勢いよく母のつくってくれた愛情飯を食べている。私はゆっくり食べていたら、親父が「おい泰秀、なんでおまえそんな浮かない顔して飯を食べてんのや?」と言う。私はその時何を考えていたかというと、自分だけが「中山泰秀」と1票書いて投票して、開票の時に自分の1票だけしかなくて、1票で落ちるかと思うと飯がのどを通らない。」という話を親父にしたら、親父が「そうか安心しろ。うちは4人家族やから、4票で落ちることはあっても1票で落ちることはない。」なっ、て言って大笑いで、それが親父の言葉でした。それで逆に元気が出た。そういう政治家の家で育って、いろんなトレーニングを受けてきたこと等が、人生の肥やしになっていると信じています。そしてそれら全てのおかげで今があると思うんです。本当に心から感謝しています。皆様に。そして家族に。

三代目にして初代的

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今期限りで政界引退される小泉元総理と酒を飲みながら最近色んな事を語り合った泰秀。尊敬している。同じ薩摩隼人のDNAを持つ。

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世間は世襲というと、また3代目というと、それだけでなんか甘えん坊で、全部親がお金の面倒を見ていて、「地盤・看板・カバン」が揃っていてというイメージがありますけど、少なくとも私にそれはあてはまらないと思います。もうひとつ選挙の前に親父が言ってくれたのが「泰秀、注意して良く観ておけよ。必ずねじれるから。おもしろいぞ。」と言ったんですね。「ねじれるってなにが?」と言ったら、「ワシを応援して下さっていた方の中にはおまえを応援せん人もいる。ワシの相手を応援していた人たちが、またおまえを応援する。後援者というのはねじれることもあるんだ」と。そうしたら本当にそうだったのです。見事にねじれるんです。100%がそうだとは言いませんが。ですから祖父、祖母、親父、私と続けて応援して下さったのは3~4割の方位じゃないでしょうか。あとはほとんど「おじいさんは好きやったけど、お父さんは嫌いやった」「孫のあんたは、またええわ。じいさんに似て先見性がある。」とか「親父は話が長すぎてしつこかったけど、あんたの話は分かりやすい!」なんて言われる。  でも逆もいるんですよ。「お父さんはええけど、倅はあかん!」とか。そういう人に私は「40年ほど待ってください。親父と私は40歳年が違うから。40年待ってくれたら親父を抜かしますから。」って。そうしたら苦笑いして下さいます。だけど残念ながらそういう性分になっているんです。 まあそんなことで、なんやらかんやらやってこさせて頂くことができました。

半ズボンのスーツで父の留守を守る泰秀 母とともに後援者の皆様にごあいさつ。

この写真なんかもそうなんですけど、半ズボンのスーツを着て、親父が行けないところを母と一緒に回って、私なんかも挨拶をしていたような時代です。こういうことを25歳の時点まで重ねてきてやっているんです。初舞台は旭区の演説会にて3歳でマイクを通じ「今日は父のためにありがとうございました。」と言ったのが最初でした。 祖母はクリスチャンでしたから、数字は神の啓示だとよく言っていたと聞いています。「始終1票(しじゅういっひょう)を大切にしなさいよ。」と。何故、始終1票かというと、祖母が厚生大臣を無事務めた後の選挙で落選をしたことがあるのですが、その時に41票(しじゅういっひょう)差で落選しました。だから41という数字が神の啓示だと。そこから考えると4万3,143票というのは、私にとっては「よみいいよみ」と読めるんです。「よみがいいよみだよ」次頑張れるよ、というそんな感じに。そして復活当選した時の「8万7187票」は「はないいはな」なんです。復活当選だから「いい花が咲くよ」と思えたし。神様がそう言ってくれているんだなって。そして今回当選した時は「13万2,072票」。「いざになふ(う)」と読める。神様から「国のことを、重責をいざ担いなさい」と言われている感じが、そんな使命感がします。数字のそういうご啓示というのは面白いなというのが私の印象なのですが、24歳で初出馬して以来、29歳ですでに3度選挙を経験しました。衆議院を小選挙区1回、比例区1回の計2回。そして3度目が都島区であった補欠選挙。3回苦労しているわけです。4度目の正直で落選して比例復活して初当選。5度目がこの前の郵政解散で、当選させて頂いたわけです。したがって2期6年目を迎えさせて頂いておりますが、初めて挑戦してから14年が経っている。当選する前に8年という辛酸をなめた時期があるんです。すなわち「政治にプロはいない」。常に素人の国民と同じ、そしてその先頭に立って頑張ること。それこそが政治家。失敗することも当然あるということだと思います。「摩擦を恐れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥しだ。でないと君は卑屈未練になる。」電通鬼十則の吉田秀雄社長がおしゃったこの言葉が、私の大好きな言葉です。日本の発展に向けて、子供たちの未来に向けて、政治家として誠意を持って誠実にこれからも努力をし、進んで参る気持ちです。

皆様に心から感謝

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私の政治家としての活動をお支え下さる皆様方に、心より御礼申し上げます。

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政治家【中山】を支えて下さった皆様に感謝

今「世襲」なんかの話題があるなかで、もっとも基礎の部分は なにかといったら、祖父・福蔵、祖母・マサの時代から父・正暉の時代、そして私の時代まで親子三代、中山家をずっと支えて下さった皆様に心から感謝したいという気持ちなんです。 時にはお叱りも受け、時には叩いてもらい、時には一緒に泣いたり笑ったりしながらも、ずっと支えて下さった方々が大阪にいるということ。もう亡くなられた方々も当然います。そういうみなさんに心から感謝を申し上げたい。「ありがとうございます。」というのが私の最大のメッセージなんです。
  政治家って、なりたいと思ってなれる職業じゃないですよね。本人がいくらなりたいと思っても、「なれ」とか、「おまえガンバレよ」とか、「おまえを盛り上げるよ」という人たちがある一定以上いないと、なりたくてもなれないのがこの職業です。  会社を興して自分が社長になることはできても、事業の承継はできても、政治家の承継というのは、親が良くても本人が悪かったらなれないわけですよね。本人自体が民主主義の中でどのように「もまれる」かっていうことこそが、実は魂だと思っているんです。育ち方はこういう育ち方をしています。どんな勉強をしてきたのかと聞く人がいたら、こういう勉強をしてきましたと。「じゃあ、おまえはどうなんだよ、自身は?」と「おやじさんやじいさん、ばあさんが立派なのは分かった。おまえはどうなんだ?」と言われた時に、私はこうですと言って、一生懸命訴え出る。しかも、他にもどんぐりの背比べのような多分立派なカウンターパートナーも出てくるわけです。そういう人たちと張り合って上がってこなければいけない、行かなくてはならない。だから相手にも感謝してます。そういう意味での感謝という気持ちもあるんです。
私の政治家としての活動をお支え下さる皆様方に、心より御礼申し上げます。本当に、本当にありがとうございます。「飲水思源・飲み水は源(みなもと)を忘れず。」
感謝 中山泰秀 拝
(2009年6月22日、東京・永田町の衆議院第一 議員会館内にて)