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2009年7月 6日

中山家で進められた自由党の結成

自由党結成が話し合われた中山家の枚岡別邸での貴重な写真。

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中山泰秀が語る「中山家の歩み」政治に真剣な家に生まれて

中山家枚岡の別邸で進められた自由党の結成

この写真(3面上右の写真)を見てください。この左から3番目にいるのが、私の祖父・中山福蔵です。その向かって右にいるのが鳩山邦夫さんと現民主党代表由紀夫さんの祖父である鳩山一郎氏です。一緒に写っているみなさんも、後々議長や首相そして大臣になる政治家達です。 これは昭和21年の写真です。場所は祖父・福蔵が枚岡に所有していた別邸。戦中父・正暉の兄弟もここに疎開をしていたこともあったようです。ここに祖父が鳩山さんをはじめとしたこの面々と相集い、当時の自由党を結成する運びを決めたのです。 しかしこのあと、鳩山氏と総理大臣の座を争っていた吉田 茂氏がGHQに、鳩山がナチスドイツを肯定しているような文面の著書がとたれ込みを行い、鳩山氏は占領軍からの追放令により政治的立場を奪われ、結局、総理大臣の座が遠のき、吉田氏が先に総理大臣になることになりました。鳩山氏も最終的に総理大臣になり、そして自民党初代総裁になりました。その原点の写真です。そのような歴史に、祖父・福蔵をはじめ中山家も加わらせて頂いていたのは他でもない、当時から祖父を支えてきて下さった大阪の皆さんの本当にお陰であると心より感謝をしております。史実として、このように大阪で、昭和の政治の歴史の1ページがつくられてゆき、平成に至っても鳩山和夫・一郎・威一郎そして現在の鳩山由紀夫・邦夫として4代目にあたる「2羽の鳩」は活躍されている。私も中山家で政治家を務めさせて頂いて親子3代ですが、日本の政治の中で、代々に亘る形で日本の国民・国家の為に働かせて頂けていることに、また与えられた使命を全うさせて頂けていることに、本当に地元の皆様に「ありがとうございます!」と感謝を申し上げます。ましてや現在繰り広げられている、吉田 茂氏の孫、麻生太郎首相と民主党の鳩山一郎の曾孫、鳩山代表の戦いも、もとをただせば吉田 茂氏と鳩山一郎氏との争いから、まるで因縁かの如く同じことを演じているという歴史の不思議を感じます。 祖父・福蔵は九州は熊本生まれ。父が早く亡くなったので母に連れられて、鹿児島・志布志に移りました。私も鹿児島県人3世で、現在同県人会メンバーです。福蔵は、大阪の旧制富田林中学に遊学し、家庭教師をしながら苦労しました。勉学だけは人一倍できたので、大学進学までを全て特待生として独立独歩。旧制第七高等学校から東京帝国大学法学部を卒業、弁護士事務所を東京で開けということを最初言われたそうですが、東京だと東大の同級生と法廷で争わなきゃいけない。それは宜しくないということで、大阪で中山福蔵弁護士(法律)事務所を開きました。そこで福蔵と結婚したのが祖母マサです。 

女性初大臣・祖母中山マサの胸像(長崎の活水女学校)

祖母・中山マサは長崎出身で、長崎には活水女学校というミッションスクール・プロテスタント系の名門女子校があるのですが、祖母が13歳当時、米国宣教師であった先生のお薦めで14歳の時アメリカに渡りました。正に第一次世界大戦中、ドイツ軍の潜水艦Uボートに追い掛けられながら、必死の思いでアメリカ大陸を目指したそうです。そしてオハイオ州ウエスレアン大学を卒業した後、日本に帰国し長崎の活水女学校で、英語の教師をしておりました。今はこの写真に写るように、校舎内同窓会事務局前に、胸像を建てて下さっています。そして将来、その彼女が「大阪の有権者の手によって」日本初の女性大臣になるわけです。まさに大阪有権者の先見性の象徴であったと言えます。祖母は私の誇りであり、そして同時に心よりの『感謝の意』を今でも大阪の皆様に忘れたことはありません。 この祖母マサと中山福蔵を縁組して下さったのが、早稲田大学創始者・外務大臣も経験された大隈重信公の秘書官 川尻正修氏のお世話になったお見合い話なんです。そして2人は大阪市で新婚生活に入り、戦前衆議院に当選したのは昭和7年、くしくも父正暉が生まれる直前のことです。戦前の話ですが、中山福蔵というのは、独立心が非常に強くて、東大在学中に休学をしてジャワ、インドネシア ボルネオの方で、ゴム園を経営していた伯父を助けて活躍していたこともありました。