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2009年7月 4日

潔く勇退した父・正暉

祖母マサの葬儀にて参列者に感謝・立礼する泰秀 当時6歳。

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70歳で潔く勇退した父・正暉

僕は、現代の政治家に対して思うところがあります。 うちの父と同期の人たちが未だにいたりとか、総理大臣経験者の方等、例えばアメリカではゴア副大統領がいい例だと思うのですが、副大統領ですら辞めて、議会に戻らずに、なおかつ環境問題を訴えつつ世界中を演説して歩いている。そして、寄付で得たお金などを環境のための事業、価値ある事業に対して"価値ある支援"をやっている。日本でも70歳目途に政界引退ですとか、総理大臣経験者等は時期を観て引退なさって、もっと社会に貢献するような事業にご自身の名誉名声を活かしながら社会貢献度の高い事業等をやることが、もっと人々の尊敬の念というものを高め、世の中に対して良い波及効果を生むと思います。 今の政治家の先生方、先輩方にも、ぜひうちの父の姿勢を見習って頂き、そういう第2の政治家人生を考えて頂けたらありがたいなと思います。政治家の第2の人生、小泉純一郎先生もまさにそうですよね。今度、引退なさるわけですから。 さて、そんな家に生まれて、私自身は25歳で初出馬。本当に、文字通り最年少候補で立候補、全国自由民主党最年少候補でした。選挙期間中に誕生日が来たという不思議な選挙でした。どうしてこのような事態になったのかというと、選挙制度が変わり、中選挙区制度から小選挙区制度に移行し、1つの選挙区が3つに分割されました。大阪市内の選挙区が事実上増え、誰も出馬する人がいない空白区ができてしまったのです。当然、党としてそこには誰かを擁立しないと、当時の新進党、共産党、民主党等をはじめとするその他の政党に不戦勝させてしまうことになってしまう。かれこれ今から14年前の選挙のことです。そこに私は初出馬させて頂くという運命になったのです。 その時は、父 正暉が渡邊美智雄グループの事務局長をしていて全国の候補者を選ぶ各派8人の代表の1人でした。3つに分かれた選挙区の4・5・6区のうち父正暉が4区、6区が公明、5区に候補者がなく代表者会議で人選を急がれ、種々検討されましたが、ついに他のメンバーから倅 泰秀を出せと要望されました。森 喜朗先生が幹事長で、たまたま親父と秘書の私が車に同乗している時、森先生が電話をしてこられまして、私が要望を受けることになりました。親父は、府市会議員の先生方にもお聞きし、公募型でいろんな人にもどうだ?と情報を集めたが、結局どなたも出馬する人がいない。当時、自民党がなかなか厳しい状況で、他党相手に勝算が立つ可能性が薄いという中では、誰も自民党公認なんかで出馬するという人はいないわけです。そうしたら森先生の要望で親父が電話を受け「倅は今隣にいるから」と言って、電話をバトンタッチ、私が直接お話しすることに。そうしたら森先生が「おう、倅か。どうだ、今度選挙出てみないか?」とおっしゃったので「いや、幹事長、せっかくの有り難い光栄なお誘いですが、申し訳ないのですが、私はまだ24歳で被選挙権がありませんから。自民党の大幹事長にお誘い頂いたのはうれしいのですが、残念なんですがお役にたてません。また次に機会があったらぜひチャンスを下さい。」と回答したら、「そうか、おまえ誕生日はいつだ?」「はい、私は昭和45年10月14日生まれです。」と「分かった。誕生日が来ておまえが25歳になるまで、衆議院は解散しないでいてやってやる。」とおっしゃったのです。そうしたら本当にずるずる解散が延びて、出馬することになったんです。